最近、恋愛ソングが聴けるようになった。
ジャングルジムのてっぺんに自転車を引っ掛けたり、今考えると不衛生すぎるみたいなこと(飴を回し舐めする、こぼしたスープをそでで拭く)が頻繁に横行していた小学生時代。
私はしょっちゅう外で遊んでいた。その日もよく知らない子とそれなりに遊びつつ、5時のチャイムが鳴り、もう流石に帰るよね?という雰囲気の中、クラスの中で好きな人がいるか、という話題になった。
嫌な予感!
尻の下にあるタイルの温度が急速に伝わる。今トイレに抜けたら変だろうか。それとも帰る?
そう、私はこの頃から恋愛がわからない。
本質的には「わからない」というより、「私は特定の人を恋愛感情で好きにならないので、その感覚には同意しかねるが、私以外の人間が恋愛感情を持つという事象には、私の意思は関係ないので理解できる」ということである。
しかし。
そんなことが小学生の時に伝えられるわけも、伝わるわけもなく。
結局、好きな男の子が誰かを執拗に聞かれ、言うまで帰れない、という最悪・最悪最悪状態に陥ることになった。今でもありありと思い出せる、座っている階段が陽の光で赤茶色だったこと。途切れるアリの列。床のゴムが半分外れかけて、下地の肌色が気持ち悪かったこと。話しかけてきた子から覗く歯。逃れる為に適当なクラスメイトの名前をあげることもしたくなかった。この時は適当に誤魔化して帰宅することができたが、私は未だに帰れていないような心地になる。今も。
私はアロマンティックだった。
*アロマンティック… 恋愛的指向の一つで、他者に恋愛感情を抱かない人のこと。
恋愛は全員がするものでは、ない。
野球をするかどうか分からない人に「野球選手になれるといいね」と言わないように、恋愛をするかわからない人に「恋人ができるといいね」と言わないで欲しい。私の場合はアロマンティックだけど、見えないセクシャリティ、見えなくさせられているセクシャリティは沢山ある。悲しいし、憤りを感じる。何よりも人が死ぬ。本当に死ぬ。存在をないものにさせられることは想像以上に苦しい。
自分がマイノリティであり、それを認識していない状態で世の中において透明化されるというのは、確実に自分は席に座っているのに、ずっとずっと名前を呼ばれなくて、「もしかして名簿にもないのかな」と不安に駆られることと似ているような気がする。(ほんとうに軽く言うと、ではあるが)そしてみんな間違えた名前で呼ばれたくなんかない。
セクシャリティは流動的なもの
一杯のコーヒーを共にすることも、同居もそう変わらない。と私は思う。私が明るくなれたのも、恋愛ソングを聴けるくらい落ち着いた(過剰な嫌悪感が薄れた。それは少なくとも私にとって、いいことだった。楽にはなった)のも私のおかげだし、生きていく上で、「この人は私の名前を呼んでくれている!」と思うような出会いがあったおかげでもある。アロマンティックのサイトを見つけたとき、ネットでセクシャリティ診断を行い、しっくりくるセクシャリティが見つからなかった私にとって救いだったのだ。芸人さんのコントや知り合いとの会話、友達とのLINE。日常の全てに傷つくことはあれど、私とてあの頃のままではあるまい。
私の手にはちいさな反抗と、柔らかいハンカチ、沢山の書物、そして大きな反抗!愛がある!
私の周りの人(もちろん私も。)が愛に塗れて欲しいと願う。